これは表に出ることのない、非公式の文献の話だ。
いや、文献というよりは日記と言った方が近いだろうか。
これはある妖怪、餓鬼による話になる。
昭和くらいまでは妖怪は妖怪のまま過ごすことができていたのだという。
文明が進むにつれ、妖怪という存在はただの創作物として認知されるようになった。
そのことで、妖怪たちはある2択を強いられることになる。
人里を離れ、誰も寄り付かない山奥に行くか、人間に化けて町に住むか。
今回の餓鬼は後者を選んだ。
というより、選ばざるをえなかった。
なぜなら、餓鬼の食べ物は『人間』だからだ。
山奥に行くということは、すなわち餓死を意味する。
中には今の状況を悲観して餓死を選び、山へ行った餓鬼もいたのだという。
だが、その餓鬼は生きたいと思った。
思ってしまった。
そして、町に残るという選択を選んだのだった。
人間として生活することに関しては苦ではなかった。
そもそも、餓鬼は人間と見た目は変わらない。
バレることはそうそうない。
あるとするなら、『人間を食べているところ』を見られることくらいだろうか。
とにかく、生活自体は特に苦労することはなかった。
だが、一番の問題は、その食糧だった。
むやみやたらに襲って食べればいいわけではない。
同じ地域で食べ過ぎれば、大騒ぎになる。
まして、有名人なんかを襲ってしまえば全国的に広まってしまう。
なので、その餓鬼は一人暮らしの人間を狙った。
生活保護などで仕事をしていなければ、尚更都合がいい。
普通ならホームレスを狙えばいいと思うかもしれないが、意外とホームレスは横の繋がりが強いのだという。
それに餓鬼自身も『美味しい』ものを食べたいらしい。
1年で大体10人くらい食べ、他の場所に移る。
そんな暮らしを10年以上、続けていたらしい。
だが、ある地域に行ったとき、餓鬼はその場所で3年ほど過ごした。
なぜ、その場所を動かなかったのか。
それはある女性が理由だったと書かれていた。
その女性について、餓鬼は長々と書き残している。
その中にこんな記述がある。
「彼女と話していると、胸が高揚する」
本人はその感情を理解していなかったようだが、おそらくそれは――恋だったのだと推測できる。
その女性はボランティアをやっていて、誰に対しても優しかったのだそうだ。
そして、彼女はクリスチャンだった。
罪を憎んで人を憎まず。
死んでいい人間なんてこの世に1人もいない。
それが彼女の口癖だったらしい。
その話を聞いた餓鬼は、なんと人を食べるのを止めようと考えた。
彼女と胸を張って会えるように、と。
だが、それには無理が出る。
餓鬼は人間しか食べられないのだから。
当然、飢えが来る。
最初の1、2ヶ月は我慢できたようだが、3ヶ月目になると飢餓に我慢できず、人を食べていたらしい。
そして、餓鬼はそのたび、自己嫌悪に陥った。
生きるために食べることを否定するという、生物として矛盾を抱えたまま、餓鬼は2年という長い時間を過ごした。
その頃になると、女性への想いと自分が餓鬼という、汚らわしい存在であることの葛藤で心を病み始めている。
そして、餓鬼はある決心をした。
餓死しよう、と。
そうすれば、女性のことを想いながら死ねると考えたようだ。
そう決意してから、餓鬼はなんと半年の間、人間を食わずに過ごした。
彼女への想いと食欲という生きるための欲求を天秤にかけ、日々を必死に生きていた。
気が狂いそうだったのだろう。
この辺りになると、意味不明な記述も目立ってきた。
だが、ついに餓鬼に限界がやってくる。
理性を失い、ある人間を襲って殺してしまった。
その相手が、餓鬼が愛した女性だった。
餓鬼は絶望した。
最愛の人を失ったこと。
その最愛の人の命を奪ったのが自分だったこと。
餓鬼は女性の亡骸を抱えて、家に帰った。
それから3ヶ月後。
餓鬼は死体として発見された。
その死体の傍らには女性の亡骸があったのだという。
そして、その亡骸にはどこも欠損はなかったと報告書に付け加えられている。
餓鬼は望み通り、人間を食べることなく餓死することができたのだ。
最愛の人を殺すという代償を支払って。
これで、餓鬼の話は終わりになる。
この文献から読み取れるのは、単に妖怪が1人死んだということだけだ。
この餓鬼以外にも、餓鬼はまだ存在するし、他の妖怪だっていまだに人間に危害を加えないと生きていけないものもいる。
1人の餓鬼が死んだだけで、世の中は何も変わらない。
何も変わらず、世界は回り続ける。
ただ、それだけだ。
終わり。
コメント